郷土歴史覚書之扣

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二十世中興應傳大和尚について


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現在の本堂と庫裏(總受付)

 

師諱を應傳、靈感と号す。           

生年月日は不明、お膝元下川村       本間與治右衛門(下川本間家本家)の出身   出家剃髪の後鶴岡市神明町の保春寺に入  る。卍山道白の弟子で保春寺七世雲嶽石    瑞の弟子となり、師の室に入って法を嗣  ぐ。應傳は卍山の孫弟子と言うことにな  る。大場秀弘老師著[荘内洞上諸祖傳]で   は元禄十二年八月に師の石瑞が示寂し、  その後住として同寺八世に上がったとし  ている。                善宝寺十九世良乘大和尚は、享保八年に   示寂した事は前のブログで書いたが、   同年縁有って善宝寺二十世に昇住した。              

先々住慧遠代から続く、本寺余目梅枝山乘  慶寺との本末争論が激化し、幕府寺社奉   行・関三刹・僧録総穏寺等に訴え、訴状  を提出し、乘慶寺と争った。享保十二年   六月、詮議の結果善宝寺が敗訴となり一   旦は解決した。             また、同年九月三日関三刹より善宝寺に   対して同寺は開山は太年浄椿にして、峨   山韶碩は世代に加えず、御影も尊崇の為   であるという定書が下された。      享保十九年十二月、應傳大和尚は本寺乘   慶寺の末寺の札を外れ、總持寺直末の儀   を幕府に願い出る。時の御老中であった   庄内藩主酒井忠寄候(善宝寺のある下川村は、寛文年間以降天領であったが、当時は庄内藩の預かりであった)の力添えをえて同年より  總持寺五院普蔵院の預り末寺と正式に決まったのである。    

その為に本寺・乘慶寺との法縁、開山浄椿大和尚以来の一師印証(十世運徹以来伽藍法)の法を絶ったことになった。

 出府の折に、八代将軍吉宗公より真筆の[法華経属累品]と[御茶碗]を拝領した。
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出府の砌御拝領の品

 

應傳大和尚の功績はその他に、在職十五  年間中に現在の基礎となる元の本堂と庫  裏、衆寮の建造である。昭和三十五年の  本堂再建までの二百数年の間、威厳を示   してきた。應傳大和尚最も大きい業績で  ある。

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江戸中期の善宝寺絵図の本堂・庫裏・衆寮f:id:tkdama:20240129202922j:image

應傳大和尚建造の旧本堂(大正期)

 

また應傳大和尚は、当時浄土宗であった   加茂の光明山極楽寺曹洞宗に改宗し、   善宝寺末寺として迎えた。今は湯野浜乗   慶院(善宝寺末)が兼務しているが、昔は二八世慈鏡尼和尚までは尼寺であった。                善宝寺に与えた業績は大きく、善宝寺信  仰の中でも大きな転換期となった言える。        その為[中興]の稱號を賜り今に至るり。

 

文三年九月三日善宝寺に於いて示寂す。 法嗣は、常行大捨・松屋大容・黙照智存  蜜岩祖敎・天中規外・不説の6人がいる。

 

また、言伝えでは應傳大和尚の墓に詣でて  苔を煎じて是を飲めば風邪に効くと言われ ている。                  

(此の話については別項にて書くことにする)

 


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霊感傳大和尚禅師

應傳大和尚墓塔の礎石の部分には、事績等が刻まれているが、風化して読めず。

 

注)名前の読みは、[れいかんおうでん]である。