師諱を良乗、時聖と号す。
善宝寺十九世に住した。それ以外
には伝わっていない。
總持寺住山記には、良乗大和尚の
瑞世記録がある。
無端派延命寺 一萬二千百九十二世 (時聖)良乗
受業師(北岸)玄海 嗣法師(海按)指光 元禄十四辛巳歳五月朔日
總持寺住山記より
良乘大和尚もまた、初めは無端派で延命寺 の僧であると言える。 受業師は庄内の延命寺と付く寺の世代には見えないので、一円の庄内寺院の世代から調べる必要があるが、嗣法師は僧録所総穏寺八 世海按指光で有ることが分かった。
良乘大和尚は他に転住地も無い為、行状を 調べるにも資料が乏しい。
正徳四年七月朔日、十八世慧遠大和尚が示 寂され翌五年に他法なれど、縁有って十九 世に昇住した。伽藍法に依って慧遠大和尚 の法、即ち開山浄椿大和尚以来の法を嗣い だのではないか。
注)確証は得ないが善宝寺では、十世運徹大 和尚以降昇住するに当って、嗣法替えが行 われ即ち伽藍法に依って維持、相続された ものと思われる。
[良乘大和尚と本末争論]
善宝寺に入院した良乘大和尚も、特に業績 は無いものの、先住慧遠大和尚が示寂の前 年に起こした、乗慶寺が末寺であるとの訴 状(本末争論)は、昇住してからも決着が付かず、その2年後の享保二年六月六日、改めて、本寺であるはずの余目乘慶寺とその末寺寳護寺は、越前龍澤寺の末寺に非ず善宝寺の末寺であるとして、僧録所総穏寺に訴状を出し、乗慶寺と本末関係を争い、次第に争論は激化していく。翌三年戊戌二月四日、乗慶寺十九世慈音和尚(梵桂)は本末争論に対して、開山以来御簾尾の龍澤寺末寺である旨の返答をする。
享保五年庚子十二月十八日、寺社奉行の裁許が下るが、両寺共に不服たる旨の請書を提出するに及んで、一行に決着せず應傳大和尚迄時は過ぎる事になった。
しかして良乘大和尚は決着を見ずして、享保八年癸卯四月十一日示寂する。
法嗣は、浜中正常院二世頭峯丹石・君佐
月庵雲播?の三人でる。
墓塔は歴住世代墓に其れらしき墓塔はあるが、今の所は不明である。
読み方は[じしょうりょうじょう]と読む。