師諱を慧遠、弘道と号す。
善宝寺十八世にして、五院普蔵院
に輪住した。他転住等は不明であ
る。大場秀弘老師著、曹洞宗庄内
寺院年表を見ていくと慧遠大和尚
と思しき僧があった。住山記と照
らし合わせていくと、慧遠大和尚
であると言える。
通幻派永源寺、
一萬九百四十四世、惠遠
受業師鐵庵廓牛、嗣法師宅雄
元禄六年四月二十九日
總持寺住山記
とあった。慧遠大和尚も又初めは
通幻派で、酒田の永源寺の僧であ
ったと云う。が、受業師は善宝寺
十五世鐵庵廓牛大和尚であった。
寺院年表を見ていくと、通幻派と
太源派の僧の受業師若しくは嗣法
師に弘道惠遠として載っている。
これらを踏まえると、慧遠大和尚
の法諱は「慧遠」と「惠遠」の二
通りあると言える。庄内寺院で慧
遠大和尚が転住した記録が無いの
で確かめるには至らないが、読み
も同じ「えおん」と読むと著者は
考えている。又、慧遠大和尚は善
宝寺住職として五院普蔵院にも輪
住している。
梅山派内、太初派 直請
羽州善寶寺弘道慧遠住 印
従元禄十三庚辰八月十五日
同到十四年辛巳仲秋十五日
普蔵院住番牒(二)
前年元禄十二年四月、十六世英屋
白雄大和尚が示寂し、翌十三年に
善宝寺に入院し、其の年の内に五
院普蔵院に輪住したと言える。 元禄十四年三月と五月に五院塔主 連判状に普蔵院塔主として参画す る。
[勧修寺家文書]
元禄十四年四月二六日付並同年 五月朔日付總持寺五院塔主連判状
元禄十四年秋に普蔵院塔主の職を 辞して、善寳寺に帰寺する。 それから示寂するまでの十四年余り 善寳寺に在職したようであるが、こ れといった事績はないが、正徳二年 九月十四日、元々本寺筋である余目 乗慶寺が末寺たる旨を主張して、 吟味を願う。これが二十世應傳和尚 迄続く乗慶寺との本末争論の始まり である。
慧遠大和尚は訴状を起こした翌年の 正徳四年甲牛七月朔日示寂す。
法嗣は、大系譜と善寳寺血脈上では 十九世時聖良乘の1人である。 だか、住山記を見ると、祖外忍了と 恵印越光の受業師となっている。 (慧)
慧遠大和尚の墓塔は、今の所世代墓地 には見当たらない。
注)名前の読みは、[こうどうえおん]