郷土歴史覚書之扣

郷土の歴史をより詳しく書いき

22世覺仙大和尚 略伝

師諱を覺仙、大等と号す。

生年月日、生国共に不詳

師は初め温海菅野代寶傳寺3世に首先住職したと考えられる。後鶴岡(現神明町)の保春寺十一世に列する。                    保春寺在職中に總持寺に瑞世をする。

太源派 保春寺                 一萬五千五百七十二世 大等和尚        享保二年丁酉四月四日              受業師 應傳和尚 (20世靈感應傳)       嗣法師 報天和尚                羽州之住僧也


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總持寺住山記より

こうして、住山記を見ていくと覚仙様も覚了様同様に應傳様が受業師となられている。   覚仙様の場合もまた、「報天和尚」と言う嗣法師が保春寺世代にも見当たらないし、庄内寺院でも詳しくは今現在不明である。       

覚仙様は、保春寺十世大通玄峯の後住として正徳六年(享保元年)四月前後に同寺に晋住したものと考え、その翌年に總持寺に瑞世した。

覚仙様は享保二十年保春寺十一世として、境内に宝篋印塔を建立している。施主は地主宗五郎とされる。(現存する)

そして延享二年縁あって善宝寺に22世として昇住する。                   22世としては行状は不明であるが、宝暦元年辛未に退董したとされ、その翌年に要津喝禅が23世に晋住する。

その4年後の宝暦四年甲戌八月十九日に示寂す。退董から示寂までの4年間、善宝寺東堂として何処に隠棲していたのかは不明である。

法嗣者は今の所は不明だが、受業師として白蓮寺鐵獅・東傳寺八世?玉髙海印・東源寺九世・長川寺六世大達是道の3人がいる。

 

覚仙様の卵塔も歴住世代墓地にひっそりと佇んでいる。
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表 大等仙大和尚之塔              裏 宝暦四年八月十九日入寂

 

また道号法諱は、善宝寺・寶傳寺では[大等覺仙]としているが、保春寺では[大等籌仙]となっている。

読みは善宝寺では[たいとうかくせん]とお読みしている。

21世覺了大和尚 略伝


師諱を覺了、性林と号す。           

生年月日、生国共に不詳である。

 

初め善宝寺末寺・浜中村正常院三世に首先住職し、次いで同じ末寺の田川村梅林寺六世となった。                    正常院住職時代に、本山總持寺に瑞世する。

太源派正常院                一萬五千三百二十五世 覚了和尚               正徳六申年四月十六日          受業師 應傳和尚 (20世中興靈感應傳)      嗣法師 明山和尚              羽州之住僧也          

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總持寺住山記より 

受業師は、善宝寺20世應傳大和尚であることが解るが、嗣法師である明山和尚は正常院世代にもいないため良く解らない。

(この時代に明山と号する僧は庄内寺院には数人いるため、よく調べる必要がある)

注)今まで21世覚了様・22世覚仙様については法脈も解らなかったが、住山記によって少なからず應傳様の系統であることがわかった。

 

正常院・梅林寺時代にはこれと言った功績等はみられない所である。    

文三年九月三日先住應傳様が示寂し、それに伴って翌四年に選ばれて21世に昇住した。  在職5年の内大きい業績は不明である

 

延享元年甲子三月十一日示寂する。 

法嗣者は、東傳寺五世・梅林寺七世・保春寺十二世祥山靈瑞の1人である。





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表 性林覚了大和尚

また、正常院では道号法諱「性林學了」とし、梅林寺では「少林覚了」としている。

善宝寺での読みは[けいりんかくりょう]と云う。

 

應傳大和尚の伝説

廿世應傳大和尚(享保八年住職)は、風の神と神通相通ずと伝う。              

時に下川村に風邪流行り村人の死する者病に倒れる者数多し。應傳大和尚は寺内に居乍らにして、村人の風邪に罹る者を知れると。

村人、應傳大和尚に風邪を止められん事を願いに寺へ行くと、應傳大和尚は

「十二月三十一日大晦日の年越しの夜は精進潔斎して神佛に祈願をすべし。能く守らば風邪を止めん」と云々。

その事により下川村に於いては、三十一日の夜は精進にて年を越すと風邪を引かぬと云われ、又應傳大和尚の示寂後應傳和尚の墓に詣でて、墓の苔を取りて其れを煎じて飲めば風邪に効くとも言伝えられている。         

それによって昔は和尚様の墓に詣でる村の人達も居たという。


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苔が風邪に、効くと云われる應傳和尚の墓

 

されど應傳和尚は一年の最後、神佛或いは先祖にた対しこの感謝の心、及び自己反省新たなる年を迎えるに当たりての心構えをさせん為に、風邪の神よりて村人に方便力を以て教えしものにして、正に対機説法と云ふべきか。

 

このように昔から應傳大和尚の伝説は伝えられている。

古文書の文面を手を加えて書いているので、

あしからず。

十九世良乘大和尚について

師諱を良乗、時聖と号す。
善宝寺十九世に住した。それ以外
には伝わっていない。
總持寺住山記には、良乗大和尚の
瑞世記録がある。


無端派延命寺                 一萬二千百九十二世 (時聖)良乗
受業師(北岸)玄海 嗣法師(海按)指光       元禄十四辛巳歳五月朔日 


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總持寺住山記より

 

良乘大和尚もまた、初めは無端派で延命寺 の僧であると言える。              受業師は庄内の延命寺と付く寺の世代には見えないので、一円の庄内寺院の世代から調べる必要があるが、嗣法師は僧録所総穏寺八 世海按指光で有ることが分かった。

        

良乘大和尚は他に転住地も無い為、行状を   調べるにも資料が乏しい。      

正徳四年七月朔日、十八世慧遠大和尚が示 寂され翌五年に他法なれど、縁有って十九 世に昇住した。伽藍法に依って慧遠大和尚 の法、即ち開山浄椿大和尚以来の法を嗣い だのではないか。    

注)確証は得ないが善宝寺では、十世運徹大 和尚以降昇住するに当って、嗣法替えが行 われ即ち伽藍法に依って維持、相続された ものと思われる。 

 

[良乘大和尚と本末争論]

 

善宝寺に入院した良乘大和尚も、特に業績 は無いものの、先住慧遠大和尚が示寂の前 年に起こした、乗慶寺が末寺であるとの訴 状(本末争論)は、昇住してからも決着が付かず、その2年後の享保二年六月六日、改めて、本寺であるはずの余目乘慶寺とその末寺寳護寺は、越前龍澤寺の末寺に非ず善宝寺の末寺であるとして、僧録所総穏寺に訴状を出し、乗慶寺と本末関係を争い、次第に争論は激化していく。翌三年戊戌二月四日、乗慶寺十九世慈音和尚(梵桂)は本末争論に対して、開山以来御簾尾の龍澤寺末寺である旨の返答をする。

享保五年庚子十二月十八日、寺社奉行の裁許が下るが、両寺共に不服たる旨の請書を提出するに及んで、一行に決着せず應傳大和尚迄時は過ぎる事になった。

しかして良乘大和尚は決着を見ずして、享保八年癸卯四月十一日示寂する。

 

法嗣は、浜中正常院二世頭峯丹石・君佐    

月庵雲播?の三人でる。

 

墓塔は歴住世代墓に其れらしき墓塔はあるが、今の所は不明である。

読み方は[じしょうりょうじょう]と読む。

二十世中興應傳大和尚について


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現在の本堂と庫裏(總受付)

 

師諱を應傳、靈感と号す。           

生年月日は不明、お膝元下川村       本間與治右衛門(下川本間家本家)の出身   出家剃髪の後鶴岡市神明町の保春寺に入  る。卍山道白の弟子で保春寺七世雲嶽石    瑞の弟子となり、師の室に入って法を嗣  ぐ。應傳は卍山の孫弟子と言うことにな  る。大場秀弘老師著[荘内洞上諸祖傳]で   は元禄十二年八月に師の石瑞が示寂し、  その後住として同寺八世に上がったとし  ている。                善宝寺十九世良乘大和尚は、享保八年に   示寂した事は前のブログで書いたが、   同年縁有って善宝寺二十世に昇住した。              

先々住慧遠代から続く、本寺余目梅枝山乘  慶寺との本末争論が激化し、幕府寺社奉   行・関三刹・僧録総穏寺等に訴え、訴状  を提出し、乘慶寺と争った。享保十二年   六月、詮議の結果善宝寺が敗訴となり一   旦は解決した。             また、同年九月三日関三刹より善宝寺に   対して同寺は開山は太年浄椿にして、峨   山韶碩は世代に加えず、御影も尊崇の為   であるという定書が下された。      享保十九年十二月、應傳大和尚は本寺乘   慶寺の末寺の札を外れ、總持寺直末の儀   を幕府に願い出る。時の御老中であった   庄内藩主酒井忠寄候(善宝寺のある下川村は、寛文年間以降天領であったが、当時は庄内藩の預かりであった)の力添えをえて同年より  總持寺五院普蔵院の預り末寺と正式に決まったのである。    

その為に本寺・乘慶寺との法縁、開山浄椿大和尚以来の一師印証(十世運徹以来伽藍法)の法を絶ったことになった。

 出府の折に、八代将軍吉宗公より真筆の[法華経属累品]と[御茶碗]を拝領した。
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出府の砌御拝領の品

 

應傳大和尚の功績はその他に、在職十五  年間中に現在の基礎となる元の本堂と庫  裏、衆寮の建造である。昭和三十五年の  本堂再建までの二百数年の間、威厳を示   してきた。應傳大和尚最も大きい業績で  ある。

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江戸中期の善宝寺絵図の本堂・庫裏・衆寮f:id:tkdama:20240129202922j:image

應傳大和尚建造の旧本堂(大正期)

 

また應傳大和尚は、当時浄土宗であった   加茂の光明山極楽寺曹洞宗に改宗し、   善宝寺末寺として迎えた。今は湯野浜乗   慶院(善宝寺末)が兼務しているが、昔は二八世慈鏡尼和尚までは尼寺であった。                善宝寺に与えた業績は大きく、善宝寺信  仰の中でも大きな転換期となった言える。        その為[中興]の稱號を賜り今に至るり。

 

文三年九月三日善宝寺に於いて示寂す。 法嗣は、常行大捨・松屋大容・黙照智存  蜜岩祖敎・天中規外・不説の6人がいる。

 

また、言伝えでは應傳大和尚の墓に詣でて  苔を煎じて是を飲めば風邪に効くと言われ ている。                  

(此の話については別項にて書くことにする)

 


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霊感傳大和尚禅師

應傳大和尚墓塔の礎石の部分には、事績等が刻まれているが、風化して読めず。

 

注)名前の読みは、[れいかんおうでん]である。

十八世慧遠大和尚について

師諱を慧遠、弘道と号す。
善宝寺十八世にして、五院普蔵院
に輪住した。他転住等は不明であ
る。大場秀弘老師著、曹洞宗庄内
寺院年表を見ていくと慧遠大和尚
と思しき僧があった。住山記と照
らし合わせていくと、慧遠大和尚
であると言える。


通幻派永源寺
一萬九百四十四世、惠遠
受業師鐵庵廓牛、嗣法師宅雄
元禄六年四月二十九日


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總持寺住山記


とあった。慧遠大和尚も又初めは
通幻派で、酒田の永源寺の僧であ
ったと云う。が、受業師は善宝寺
十五世鐵庵廓牛大和尚であった。
寺院年表を見ていくと、通幻派と
太源派の僧の受業師若しくは嗣法
師に弘道惠遠として載っている。
これらを踏まえると、慧遠大和尚
法諱は「慧遠」と「惠遠」の二
通りあると言える。庄内寺院で慧
遠大和尚が転住した記録が無いの
で確かめるには至らないが、読み
も同じ「えおん」と読むと著者は
考えている。又、慧遠大和尚は善
宝寺住職として五院普蔵院にも輪
住している。


梅山派内、太初派 直請
羽州善寶寺弘道慧遠住 印
従元禄十三庚辰八月十五日
同到十四年辛巳仲秋十五日


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普蔵院住番牒(二)


前年元禄十二年四月、十六世英屋
雄大和尚が示寂し、翌十三年に
善宝寺に入院し、其の年の内に五
院普蔵院に輪住したと言える。             元禄十四年三月と五月に五院塔主         連判状に普蔵院塔主として参画す        る。

[勧修寺家文書]
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元禄十四年四月二六日付並同年          五月朔日付總持寺五院塔主連判状

 

元禄十四年秋に普蔵院塔主の職を       辞して、善寳寺に帰寺する。            それから示寂するまでの十四年余り       善寳寺に在職したようであるが、こ     れといった事績はないが、正徳二年                九月十四日、元々本寺筋である余目       乗慶寺が末寺たる旨を主張して、        吟味を願う。これが二十世應傳和尚       迄続く乗慶寺との本末争論の始まり      である。                    

慧遠大和尚は訴状を起こした翌年の     正徳四年甲牛七月朔日示寂す。

 

法嗣は、大系譜と善寳寺血脈上では      十九世時聖良乘の1人である。       だか、住山記を見ると、祖外忍了と      恵印越光の受業師となっている。        (慧)                      

 

 

慧遠大和尚の墓塔は、今の所世代墓地     には見当たらない。

注)名前の読みは、[こうどうえおん]

十七世 白雄大和尚について

師諱を白雄、英屋と号す。                      
善宝寺十七世にして、その他転
住等の詳細は伝わっては無い、
(著者の調べる限り)
善宝寺の前期の歴代住職のなか
でも謎な人物である。しかし
總持寺住山記を見る限り、白雄
大和尚の瑞世した記録がある。


無端派梵照寺
七千四百七十六世、(英屋)白雄和尚 
受業師(萬年)義歓、嗣法師玄逸
寛文七丁未歳四月四日


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總持寺住山記


善宝寺は太源派(太初派)の一寺
であるが、白雄はこの時無端派
で梵照寺(酒田)となっている。
又、總持寺五院洞川庵住番記を
見ると、無端派梵照寺として洞
川庵にも輪番職を勤めている。


従寛文九年、到同十年
羽州庄内梵照寺白雄和尚


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洞川庵住番記


これはを見ていく限り白雄大
尚は、總持寺に瑞世し且洞川庵
に輪番した無端派梵照寺の僧で
あったと言える。だが梵照寺世
代を見る限り白雄は世代に数え
られていない。元禄三年善宝寺
十六世夜光孫昨大和尚が七月に
示寂したが、その年の内に白雄
和尚は十七世として善宝寺に入
院している。ここで曹洞宗大系
譜を見ていくと孫昨和尚と白雄
和尚は師弟の間柄であるとも思
えるが、この頃の時代背景と曹
洞宗の師質相承を鑑みると、
白雄は江戸前期まで頻繁に行わ
れた伽藍法の相続によって善宝
寺十七世に昇住したものではな
いかと思われる。僧録、総穏寺       の指示もあったのではないか。           

入院後の白雄和尚は、これとい           った功績等は見当たらない。             白雄和尚は、元禄十二年四月       十一日に示寂された。                

在職十年余りである。      

法嗣は、曹洞宗大系譜・總持寺                          住山記を見る限り、十八世弘道        慧遠、傑山元英、角傳の3人である。

 

また、二十世以前の住持の中で        

唯一世代墓地に墓が現存する。  


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[前總持善寳拾七世英屋白雄大和尚禅師]

(多分)💦

注) 読みは、音読なので[えいおくはくゆう]      となる。