郷土歴史覚書之扣

郷土の歴史をより詳しく書いき

十七世 白雄大和尚について

師諱を白雄、英屋と号す。                      
善宝寺十七世にして、その他転
住等の詳細は伝わっては無い、
(著者の調べる限り)
善宝寺の前期の歴代住職のなか
でも謎な人物である。しかし
總持寺住山記を見る限り、白雄
大和尚の瑞世した記録がある。


無端派梵照寺
七千四百七十六世、(英屋)白雄和尚 
受業師(萬年)義歓、嗣法師玄逸
寛文七丁未歳四月四日


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總持寺住山記


善宝寺は太源派(太初派)の一寺
であるが、白雄はこの時無端派
で梵照寺(酒田)となっている。
又、總持寺五院洞川庵住番記を
見ると、無端派梵照寺として洞
川庵にも輪番職を勤めている。


従寛文九年、到同十年
羽州庄内梵照寺白雄和尚


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洞川庵住番記


これはを見ていく限り白雄大
尚は、總持寺に瑞世し且洞川庵
に輪番した無端派梵照寺の僧で
あったと言える。だが梵照寺世
代を見る限り白雄は世代に数え
られていない。元禄三年善宝寺
十六世夜光孫昨大和尚が七月に
示寂したが、その年の内に白雄
和尚は十七世として善宝寺に入
院している。ここで曹洞宗大系
譜を見ていくと孫昨和尚と白雄
和尚は師弟の間柄であるとも思
えるが、この頃の時代背景と曹
洞宗の師質相承を鑑みると、
白雄は江戸前期まで頻繁に行わ
れた伽藍法の相続によって善宝
寺十七世に昇住したものではな
いかと思われる。僧録、総穏寺       の指示もあったのではないか。           

入院後の白雄和尚は、これとい           った功績等は見当たらない。             白雄和尚は、元禄十二年四月       十一日に示寂された。                

在職十年余りである。      

法嗣は、曹洞宗大系譜・總持寺                          住山記を見る限り、十八世弘道        慧遠、傑山元英、角傳、讃龍の4人である。

 

また、二十世以前の住持の中で        

唯一世代墓地に墓が現存する。  


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[前總持善寳拾七世英屋白雄大和尚禅師]

(多分)💦

注) 読みは、音読なので[えいおくはくゆう]      となる。